fuyunohinotegakariの日記

写真をあげたり日記を書いたりしますが、ほとんど泣き言格納庫です。

友達なんか

母が「子どもができるまで、嫌なやつだったと思う。結婚して子どもができてから、人としての心が芽生えた」的なことを言っていて、そうなんだーと思った。

そのときはそういうもんかーと思ってたけど、私も友達なんかいらないと思っていた事実に気づいた(しかもわりと最近まで)。多分母が言っていたことと、この感覚は、似たようなことなんじゃないかなと思い巡らす。

まず、最近ようやく「人と足並みを揃えるのが苦手だ」と自覚した、という恐ろしい話をしなくてはならない。

それまでなんとなく実感として思っていたけど、「苦手なんだ」とわかって、さらに色々納得したのは、働き出して、結婚してから、つまりごく最近のことだ。

そう思えば、いろんなことの説明がつくし、学生時代は何かに足並みを合わせることから出来る限り逃げていた。

だからいろんなことがうまくいかなかったんだ、とわかったけど、いまだに逃げてしまうときもある。

おそらく、人に合わせるのが苦手だという悲しい事実を、自分が認められなかったんだと思う。「なんかうまくいかない」とか「人の気持ちがわからない」とか人のせいにしていた節もある。(ちびまる子ちゃんの永沢くんの「キミは卑怯者だね」というセリフが聞こえてきそうだ)

ほかと足並みが揃えられないのは私の問題なのだ、と向き合わざるを得なかったのは、ここ10年くらいの自分が、外の世界と関わりを持つことを意識的にやってきたからなのだと思う。大学、バイト、就職など社会生活的なことから、恋愛とかみたいなクローズドな関係まで、いろいろなこと。

それで最近、「足並みを揃えるのが苦手なんだ」と自覚し、たぶんなんか「これまでずっとそうだったし、現状の自分もそういうことなんだ」と思えたのは、人と足並み揃えずとも自分を認めてくれる他者がいるからなんだ…とわかって、なんて自分は未熟なまま生きてきたんだろう!と恥ずかしくなった。

他者、というと固いけど、夫のことをふと思ったのと同時に、友達たちの顔が浮かんできた。

思いつきで何かを話しても、話を聞いてくれて、その内容を覚えていてくれたこと。急に遊ぼうと連絡しても、ぱったり連絡できていなくても、またタイミングのあうときに「会おう」と声をかけてくれたこと。私が何か失礼なことをしても、関係を続けていてくれること。楽しいこともしんどいことも笑って話せたことなど。

そういう、ありがたいな、と心の底から思えること自体が当たり前ではなくて、さらに私が勝手に「この人のこと好きだ」と思っているだけでは成立しない、だからいっそう大切にするべきものなんだ、とわかった瞬間が、情けなくもあった。

こういうことが全然わからなかった学生時代、友達なんかいなくてもいいと思ってたんだな、と、当時の自分のことをじわじわと理解できてきた。

友達なんかいてもいなくてもいい、って多分本当に、むかしは思っていたんだと思う。でも、いまはそうは思わない。友達のことが大好きだし、できる限りずっと友達でいてほしい。そのためなら、私のダメなところも改善したいとすら思う。

そんな友達たちは、かつての友達なんかいらないと内向的な世界のなかで思っていた自分とすら仲良くしてくれてたんだな、と思うと、ウワーと叫びたくなる。過去に遡ってありがとうと言いたいけど、そんなことはできないので、これからの私のアティテュードを、今の自分ができる範囲で、自分がつねに納得するレベルに持っていくことが重要だ。それが、自分にとっての丁寧な生活だ。ちゃんと食べること、眠ること、ならびに人との共存を諦めないこと。

たいせつな友達がアメリカに引っ越す間際になって、そういうことを頭の中で思っていた。おめでとう、Kちゃん。

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