fuyunohinotegakariの日記

写真をあげたり日記を書いたりしますが、ほとんど泣き言格納庫です。

続続・二十六、二十七

今さらこんなこと、言葉にしなくてもって感じだけど。やっぱり好きな音楽聴いて、好きな文章読んで、好きな写真見てるとき、それを心の底から楽しめる気持ちとからだのとき。が、もっとも幸福度たかいかもしれない。次点が、好きな男の子といるときと、めちゃ面白いドラマか映画見てるとき。これは、気持ちもからだも関係なく、いつでもすごく幸せ。そこが違うんだなあ、多分。

これ、下書きに残っていたテキストで、いつ書いたのかさっぱりわからないけど、すごく私らしいなと思った。好きな音楽聴いて、好きな文章読んで、好きな写真見て、それを心の底から楽しめる気持ちとからだのとき、それに勝る幸福はないかもしれない。それを孤独というならば、そんな貴重な時間をときどき大切にできたらいい。

この夏、本当にいろんなことがあった。5月を乗り越えたときに「あぁ、もう大丈夫」と思ったはずだったけど、そのあと崩れたね〜。でも、いい機会だったと思う。「好きな男の子(もちろん愛する同性の友達も!)といるとき」「めちゃ面白いドラマか映画見てるとき」の幸せは、ありがたいことにずっとそばにあってくれたけど、ここ2〜3ヶ月は正直、仕事とツイッター以外の文が読めなかったし(峯田の日記の文庫以来、まともに好きなもの読んでない)、大好きな音楽を聴いても、ザ少年倶楽部を見ていてさえも、ああ楽しいと思える時ってなかった。

もう夏が終わった。今年の夏はめちゃくちゃ暑い日とすごい雨の日の繰り返しで、本当に一瞬だった。夏の終わりといっしょに、ウソみたいなことが起きた。かみさまがいるとしたら、もしかして私のこと、見てくれてますか。そんなふうに思わずにいられないことだった。

「愛されるってどんなかな いまだにちょっとわからない」と歌った十代の内博貴のことを、飽きもせず15年近く思い続けているんだけど、今の私ならわかる。たぶん、愛されるってこういうことだ。近くにいても、遠くにいても、その人の存在が、明らかに確かであると感じられる。その人はきっとどこにもいかなくて、たとえどこかにいってしまったとしても、この世界のどこかにはいる、って確信できること。それが愛されるってことだと思う。

そう思うと、私はたくさんの人に愛されてる。それに足りるひとでありたいと思う。

あと、セックスエデュケーションs3見終わってなお思うのは、思ったことは素直に、言いたいと思った時に、真っ直ぐ本音で愛情を持って伝えられること、それを受け取ってくれること、そういう人のことを大事にしたい。仕事してたりすると、いろんなことが複雑で、言いたいこと言わない方がよかったりもするし、よくわかんなくなっちゃう時もあるけど、そういうほんとのことは、ちゃんと覚えていたいな。