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イカサマな新素材

写真をあげたり日記を書いたりします

空白への許容力/「現実」の話はタブー

ちょっと前に金曜ロードショーかなんかで『バケモノの子』を見て、「こんなにキャラクターに説明させなきゃいけないの?」と思ったものだった。特にそう思ったのは、九太が熊徹の足音のみでどのような動きをしているのかわかるようになったシーン。九太は私の脳内と同じくらいおしゃべりだな〜。と思った。劇場でみたときは、台詞多いなぁ〜〜くらいにしか思わなかったんだけど、テレビで、二回目にみたときのクドさはなかなかのものだった。

じゃあこの作品で「敢えて言葉で語られていなかったことって一体何だったんだ?」と思って、途中から色々考えながら見てみたんだけど、途中で飽きてしまったのかあんまり記憶がない(家で二回目の映画を観るとき、しかもそんなに思い入れがないやつは、気合を入れないと最後まで集中できない)。「チコってなんだったの?」「お母さんじゃね?」みたいな、わかりやすい謎とインスタントに導き出せる答えのみを残してあの映画は終わった。

「空白」への許容力、という言葉が思い浮かんだのはこの一件からだったように思う。

 

ところで最近、資生堂の「インテグレート」のCMといっしょに東村アキコ先生の『東京タラレバ娘』があわせて炎上していた。同い年の女が三人揃ってマシンガントークしていると聞けば、頭に浮かぶ作品は岡崎京子の『くちびるから散弾銃』なんじゃありませんか?「インテグレート」は25歳の女の子三人。『タラレバ』は33歳の女の子三人。『くちびるから散弾銃』は23歳の女の子三人。

「インテグレート」と『タラレバ』が炎上していたときに思っていたことは、「それもう30年前に岡崎先生が超サイコーな例を残してくれてるのにな〜」ということだ。

23歳の女の子が三人でべらべらおしゃべりする。街で。喫茶店で。公園で。部屋で。ほしいもの・買ったもの・男のこと・仕事のこと。あの漫画は、喋ってる今、この会話だけが全てであり、とにかく三人の自分勝手な「語り手」がひたすらしゃべっているだけだ。これがもし、三人の登場人物の日常や生活までそれぞれ描かれていたらどうなっていただろう?とたまに考える。それはそれで面白いかもしれない。でも、この会話劇がギリギリファンタジーたりえているのは、彼女たちが暮らしている現実を、会話の中でどのように語り・切り取っているのか、本当のことは読み手(会話劇だから「聞き手」かもしんない)にはわからないからなんじゃないかと思う。彼女たちが三人で喋ってるから面白いのであって、「じゃーねバイバーイまたね」って別れて寝て次の日の朝三人がどのように目覚めてどのように仕事してどのようにデートしてどのように男と寝ているかまでは、そんなに知りたくない。知らなくても十分おもしろい。全部がわからないからこそ面白い。これが『くちびるから散弾銃』の魅力の一つなんじゃないかなと思っている。

そうやって考えてみると、『くちびるから散弾銃』に対して『タラレバ』はめちゃくちゃ対照的なんじゃないか?もう完全に「会話」よりも「三人がどのように過ごしているか」のほうが物語において大切だ。それぞれがどのように目覚めてどのように仕事してどのようにデートしてどのように男と寝ているか、の方がストーリーの根幹にある。ここがあの作品のホラーさと密接に関わっているように思う。

そう、『くちびるから散弾銃』はファンタジーで、『タラレバ』はホラーなんだ。

まあ、23歳の物語と33歳の物語を「女三人でくっちゃべってる」というだけで並べて語るには、時代も違いすぎるし、お姉さま方からしてみれば「おい小娘の駄弁ってんのとこっちの深刻度はちげーんだよ一緒にしてくれんなよ」って感じだよな。ごめんなさい。

ただもう、『タラレバ』はどうやってケリをつけるの?とビクビクしながら静かに見守ることしか出来ない。まじでホラー。これどうなっちゃうの?っていう。ここまでさんざん脅してきたんだし、うちらも頑張って読んできたんだから、何かしらの女の新しいあり方みたいな選択肢を描いてくれるんだよね?っていう自分の中での『タラレバ』へ対するプレッシャーがすごすぎて最新刊まだ読んでません。助けて。

やっぱり、若い女が喋ってるからファンタジーで、アラサーの独身女が喋ってるからホラー、って思うのはなんか嫌だ。先人の立派な女たちが一生懸命切り開いてきた「若くして結婚が至上」以外の選択肢が、恐怖に満ち満ちた行く末ってのも悲しすぎて、岡崎京子先生だったらこの2016年にどんな作品を描いていたのだろうと思わずにはいられないよ。

で、「インテグレート」の炎上にまで話はもどるんだけど、あれの何がダメだったかって考えるともう「CMだから」としか言いようがないのではないかと思う。もしあれが漫画やドラマだったら、結構いいんじゃないかと思う。人間が3人くらいで集まってする会話なんてのは、男も女も、だいたいどこも似たようなものである(と断言する)。 だからこそ共感するし、いろいろ思っちゃうし、まあ「ふざけんな」くらいの文句も言いたくなるだろう。ムッとするよあれは。私もテレビからあの声で「頑張ってるのが顔に出ているうちはプロじゃない」って聞こえてきて「うわあ〜」と思った。で、「まーーーーそういうこと言うクソ上司い!」「むかつく!!」「しね!!」「見返してやる!!!」「あ〜〜〜あ!」って会話の漫画だったら「あ〜わかる。がんばろ」ってなってたかもしれない。でもあれはCM。CMの仕事はお客さんにその商品を買ってもらうこと。ムッとさせることじゃない。あのCMは「あ〜わかる。がんばろ。このファンデ買お」というところまで、若い女性を導くことができなかった。ただそれだけ。それだけ、踏み込むのが難しい領域だったのだ。繊細すぎる、非常にデリケートな問題だったのだ。

女の子三人でおしゃべりさせるなら、まず『くちびるから散弾銃』を研究するべきだったと私は本気で思う。世間の女がお茶しながら語ってる姿を魅力的に切り取るにはどうしたらいいのか、学ぶべきだった。そこに「現実」を突きつけてはいけない。タブーだったのだと思う。

つーかこの世知辛い世の中、だれがテレビや漫画の中でさえツライ現実を見せつけられたいというのか。『シン・ゴジラ』が人の心を掴んだ理由わかる?あれは、リアリティにコーティングされた絶対にありえないサイコーの希望を叩きつけてきたからだよ。「政府がちゃんと仕事してる!」という希望。バカバカしい縦割り行政で何も出来ませんでしたハイ終わり〜!じゃなくて、お役所が一生懸命頭を使って力を合わせて国の一大事に挑んでくれている、しかも超カッコイイ。誰が1800円払って情けない政治家見たいって言うんだよ。『君の名は』は見てないけど、似たようなもんなんじゃなかろうか。リアリティ溢れる背景の書き込みにコーティングされた絶対にありえないSFラブストーリーなんじゃないのかなと思ってる(見てないのにいろいろ言ってごめんなさい)。

 

岡崎先生はそのことにとっくに気づいてた。

今はハッピーエンドのマンガを描きたいんです。ラブラブーって感じの。だって世の中がマンガに追いついちゃったでしょ。つらくて悲しい話はそろそろやめて、そういうこともわかったうえで幸せな話を描こうかと。マンガっていつも少し先の虚構を描かないとね。(「ダ・ヴィンチ」1996年7月号より)

 って20年も前だっつの。