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イカサマな新素材

写真をあげたり日記を書いたりします

光と雨

小沢健二の楽曲について人が語る時「多幸感」という言葉を用いる人が多い。この「多幸感」、あんまり使いたくないんだけど、宇多田ヒカルの「光」という歌をきいているときばかりは、「あああー」と思って胸がヒリヒリする。

極端に作者論的に偏った読み聞きはいやらしいと思いながらも、「光」だけは、どうしても、好きで好きでしょうがない相手との新しい生活を目前にした女の多幸感が本当に見事に表れているなあと思って辛くなる。なんといっても極めつけのPV!食器洗いほど「生活感」をしみじみと思わせる家事ってなくないですか?あー!それでいてさらに「どんなによくったって信じきれないね そんな時だってそばにいるから」です。これはヒステリックブルーの「だいすき」という歌(名曲)の「どんな長いどんな深い愛に包まれて暮らしても夜はこわい 未熟だから夜はこわい」です。

この、絶対に持続不可能な強い幸福、的なものは、どうしてこんなにも人の心を締め付けるんでしょうか。わたしは今年、初めて「絶対に持続不可能な強い幸福」のことを理解しました。

そしてこんな歌を歌っていた19歳の女の子だった宇多田さんが、33歳のお姉さんになって歌う「真夏の通り雨」が本当に胸を打ちますよ。地に足をつけた女として理想の姿なのではないですか?

復帰されて「お母様との別れ」「結婚」「出産」みたいなわかりやすい言葉が多くメディアに見受けられて、私もしばらくは「こんなパーソナルな歌を...」と聞きながら思ってたんだけど、今さっき、ふと「これも私の歌だと思ってきいていいんだ」とすとんと降りてきたような感覚になって、また「あああー」となりました。すごいなあー。
多くの人にとって「これは自分のことだ」と思える作品をつくる人、どうしたらそういう表現ができるようになるんだ?宇多田さんが復帰されてから結構インタビューは見てるんだけど、なんかもう天才というか、この人が歌を作って歌ってCDを出してメジャーに帰ってきてくれたことに感謝と尊敬の気持ちでいっぱいだ。宇多田さんの歌のことはまた書きたい。