イカサマな新素材

写真をあげたり日記を書いたりします

仕事。ボロボロのセーターが、端からほつれ出して止まらない、といった具合に、続々と、続々と、ミスが発覚。やばし。ごめんなさいごめんなさいと心の中で何度も謝るが、誰に謝っているのかわからなくなってくる。何も手につかないので外に出る。ミスったまま、もう世に出てしまっているので、今できるのは原因究明、反省、各所に謝罪。

今日初めて「この仕事向いてないかも」に包まれた。脳裏によぎることは何度もあったが、包まれたのは初めてだ。プールの上を、スケスケのデカデカボールに入って走る!みたいなアクティビティあるじゃん、アレ並みに包まれてる。どうやって入って、どこから出るのかわからない。私はその中で七転八倒している。必死にバランスをとりながら、今度の企画では繰り返さないぞという思いを強く強くする。もっともっと体力を、筋力をつけねば。

その、今ミスがポロポロと発覚している企画たちを進行してたとき、つまり今月前半、私はダメダメだった。何をしてたか、今パッと思い出せないくらいダメだった。

自分のくちびるから、唾液とコーヒーが混ざった匂いがして、付き合っている男のことを思い出す。こっちもあんまうまくいってなくて、今月前半、常に揉めてた気がするが、でも具体的に、いつどんな風に揉めてたか思い出せない。記憶がない。こっちはこっちで「人と親密に付き合うの、向いてないかも」に包まれて、水上スケスケデカデカボールの中で、生まれたての子鹿のようにバランスを失っている。私はどうしたいのか?ということをずっと考えているが、よくわからない。彼と何がしたいのか?一緒に住みたい?生活したい?子供を産み育てる?考えれば考えるほどわからなくなる、でも、これは恐らく、一人で考えるべきことではなく、二人で考えることだと思うので、一人で考えてよくわかんないって思うのは、たぶん、間違いではないと思う。

春の夕方、知らない街を一人で歩く。今日、靴紐が解ける、4回目。前に、付き合っている男と歩いているときに、私の靴紐があまりにもすぐ解けるので、ギュウっと強く結んでくれた。それがとても嬉しくて、大好きだと思った。今夜、靴紐を結んで欲しい。本当はまた、今すぐにでも、お願いして甘えたい。だけど、それはどうしてもできない。できないことは仕方がないので、お行儀よく諦める。諦めることが増えていく。

「私は何も望んでいない」と思いたい。私は、私自身に満ち足りていて、彼氏に何かを強く要求したりしないと思いたい。だけど、それは傲慢な考えで、本当は、ごくありふれたエゴたっぷりの生娘だったということが、この一週間ほどでよくわかった。

悟りにはまだ早かった。世俗にまみれながら、足るを知るべく、目の前の生活を立て直す。いくら将来の約束をしていても、そしていつか生活を共に過ごす日が来ても、ひとりの人間であることには変わりがない。自分の足でしっかりと立つことを意識して、余裕を持って暮らすことを心がける。それに集中することだ。

大学3年生という不思議な時期のことを考える。

他のみんなはどうだかわからないけど、私は間違いなくあのとき無敵だった。中高生のときとは違った無敵さで、少し、や、かなり、邪だったと思う。(それは今大学3年生の妹を見ていても、ちょっと思う)

あのとき私はとてもいびつで醜かった。

長く付き合った、年の離れた彼氏と結婚すると信じきっていて、色々大事なことをすっ飛ばして考えてた。この人と結婚して子供を育てたい、と思ってたけど、それは今考えると、どうしても自分の人生から目を逸らしたくて、現実から逃避するための手段だったのだなと思う。自分の気持ちすら無視して、その人のことばかり考えていたと思う。大体のことがバカみたいに楽しくて嬉しかったけど、同時にほとんどのことが辛かった。

そんなだからガタがきて、私は一度すごい邪悪な存在になった。わかりやすく喫煙を始めて、彼を半ば裏切るような形で同い年の男の子と付き合い始めた。その人には「結婚しよう」と言われて付き合ったけど、ぶんぶん振り回された挙句、たったの半年で吹っ飛ばされて、一度全てが止まった。

あのときの自分を全肯定するつもりはないが、一度あれほど極端に邪に振り切れていなかったら、中途半端にあのときのまま、うまく自分のことを考えることができない人間として24歳を迎えていたと思う。邪な存在になって、身から出た錆によって全てが一度停止したおかげで、私は自分の人生を始めることができた。依存症の人が心から治療を決意するためには「どん底体験」なるものが必要らしい。私にとってのそれは間違いなくその時期だ。あのときのおかげで、私は男の人に自分の人生を期待することも、男の人からの性的な評価を気にすることも、一切なくなった。

だから、大学3年生のときのことを思うと、そこから始まる長い長い、私が私になるためのつらくて重要な数年の幕開けだったなと思う。

 

今好きな男に「髪が長かったときの写真を見せて」と言ったら、大学3年生のときの写真をくれた。なんというか、雰囲気が今と全然違っていて、珍妙な気持ちになりつつ、かなり胸がときめいた。「これは、女がいるね。なんか余裕がある」と言ったら、男は「そうだね。なんか余裕あるね」と笑っていた。今の私はこの写真の中の男の子を好きにならないだろうな、と思ったが、時を同じくして大学3年生だった自分なら?と考えると、もしかしたらちょっかい出してたかもなと思った。邪だったからね。

今の自分が、今の自分で良かったと思うのと同時に、彼も彼で今の彼で、今このふたりでよかったと思う。

 

あけましておめでとうございます。

 

新年早々うまくいかないなということが続いています。去年は怖いくらいにとてもいいことがたくさん続いていたので、この年始のガタガタ感は、私に「人生はままならないのだ」ということを思い出させてくれる、私を謙虚にいさせてくれる良いタイミングになったと思っている。

人生はままならない、というのは私の頭によく浮かんでいる言葉であって、というか毎日頭の中で口ずさんでいると思う。仕事終わりとか、家に帰ってきたときとか、ゴミを出し忘れたときとか。

でも神様は、ままならない中でも、自分の意思で思い通りにできる部分を十分に残しておいてくれている。それは、私が今好きな仕事をして働いて、それで稼いだお金で部屋を借りて暮らして、大好きな男の子に会いに行ったり、遊んだりするのに時間を使うこと、つまり、今の生活のほとんどは私が希望している通りになっているということだ。

 

色々あり、一人暮らしして初めて一週間家を空けた。後半は実家にお世話になっていたが、実家は優しくて柔軟だけど居心地がそこまでよくなく、非常に有り難がったけど、自分の今住む家に帰ってきたときのホッとした感は、おーこれだ、と思った。

だから大丈夫だと思った。今年も一年大丈夫です。私は私の立っている場所さえ見失わなければなんとか暮らしていける。ままならないこともあるけど、一生懸命目の前のことを頑張ろうと思います。神様、どうぞお手柔らかに、見守っていてもらえたら。